ぼくを探しに 大人向けの絵本のはなし

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ふと夜中なのに、なぜかこの絵本のことを思い出してしまって目が覚めてしまった。

自分の欠点、文字通りの「欠けている点」を、それに気付かない時には無意識のうちに、気付いてしまってからは、意識的にそれを求めていく。そして、ある時から、なにかをきっかけにして、その「欠けた点」を埋めることを諦め、受け入れること、もしくは最期まで埋めようともがき続けることが、生きることだと思う。

 

僕が欲しいものは「安心」だ。不安を安心で埋めようとしている。安心とは、心を安ずるもの。我ながら書いていて変だと思う。書きながら、日本語の単語の代わりに莫名其妙もーみんちーみゃおという中国語が一番に思い浮かんだ。

安心が、喉から手が出るほど欲しかった。安心を得ようともがく間は、絶対に心の安寧が得られないというパラドックスに、見事なまでに引っかかってしまった。お金を稼ぐためにもがいて、結果として、ありそうも無いようなうまい話に騙されてお金を失うようなことが「安心」の世界にもあるような気がする。安心を得るために不安な日々を過ごして来た。本当に遠回りをしたし、恥もかいたし、多くの人を巻き込み、傷つけてきたと思う。どこかに自分の求める安心が落っこちていないかと、いろんなところに行って、いろんな人と話をした。でも安心は落っこちてなかったし、拾えなかった。どうやら安心は完成形のものとして、その辺に落っこちているものでは無いとわかった。(もちろん未だに無意識のうちに、宝くじのように、完成形の安心がひょんなことで落ちているのを見つけるじゃないかと期待して探してしまう自分がいる)

今は、安心というのは、かけらとして、ひとつずつ集めていくしかなくて、しかもそれはかけらとして、人からもらうのでもなく、「落ちているのを拾う」んじゃなく、自分で材料から彫刻のように部品を作って組み上げていくしかないのだと思うようになってきている。安心というのが、自分で作れるんだと思うと、それを探し求めるためにあちこちウロウロしなくていいのだと、少しホッとすると同時に、その手間と長い道のりに愕然とする。それはまるで全体の絵柄とピース数が不明のパズルを強制的にやらされているようだ。

今やっている家と庭作りは、その作業だとつくづく思う。ほんとは、家を作りたくて家を作っているわけでは無い。そもそもこんな古民家だって、元はと言えば古民家が欲しくて買ったわけではない。売られてた土地について来たからだ。で、なんで土地が欲しかったからというと、果樹や野菜が植えたかったからだ。なんで果樹や野菜が植えたかったからかというと、食うものがあればとりあえず飢えて死なないと思ったからで、安心したい、やはり死にたくない、生きたいと思ったが故に、一連の動きに繋がっているのだと思う。

人によってそれぞれの行動原理があるのだけれど、僕の行動原理はどうも独特らしく、多くのひとにはなかなか理解ができないらしい。残念なことだけど、しょうがない。

僕にとって生きるということは、死なないためにはどうするか、と逆算することのようだ。書いていて、まるで自分が永遠の命を欲しがる闇のなんとかのようだと我ながら感じた。楽しいことがしたい、とか、ポジティブにというよりもむしろ焦燥感とネガティブに背中を押されている感じ。よく訪問者の方からお褒めの言葉をいただいたりするんだけれども、内心は複雑だったりする。我が家でお見せしているものは全て、僕の焦燥感とネガティブさの結晶なんです、とは口が裂けても言えない。でも、その努力が報われた気もして、素直に嬉しく思い、お褒めの言葉はありがたく頂戴する。死なないため、今日もまた何かをする。

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