『長く生きること』の罪と罰

最近、実家のご近所の老夫婦が、六十年以上住み慣れた二人暮らしの家を後にする、とのことで挨拶に来られた。おばあさんは、離れたくないと、しきりに言っていた。二人とも、買い物に際してヘルパーさんを利用しながらも、身の回りのことは自分たちでできてはいたが、親族の勧めもあり、その唯一の身寄りの住む地域にある施設に入ることになった。人間関係、土地勘、持ち物、長い人生を共に形作ってきた全てを置いて、新しい場所へ行く。

それはほぼ『死出の旅』のようだと感じた。本人もここへは戻っては来られない、と分かっていた。人生の最晩年に、これまで直面してこなかったものに、この老夫婦は直面していると感じた。死というのは、皆が確実に直面しなければいけないもの。なのに皆が恐れ、避けて、考えないようにしているもの。遅かれ早かれ、形を変えて皆に平等に突きつけられるもの。

医療福祉の手厚い支援のおかげで、以前なら簡単に人が死んでいたものが、なかなか死ななくなっている。現在の80代半ばの平均寿命という結果は、死までの猶予期間を必死に延ばそうと、日本人が努力しつづけてきた成果だ。ただ、未来の可能性ある生までをも全て、今の生の平均寿命を延ばすための資源として使っているように思えてならない。十分生きてこれた人があと一年、二年ちょっと生きるためだけに資源を浪費して何になるというのだ。

私がこう思うようになった背景の一つに、二人の祖父の晩年の二つの姿がある。

一人は、退職して庭の手入れや、さつきの盆栽を地域の展示会に出すことで人と繋がっていたが、家の建て替えがきっかけで、手入れする庭が小さくなり、日当たりが悪くなった。庭に出ることも少なくなり、テレビを見て部屋で過ごすことがほとんどになり、やがて認知症になり、施設に入所、認知症発症から五年ほど介護を受けながら亡くなった。

もう一人は、若い頃から職人を続けていたが、70代後半にして身体がとうとう言うことを聞かなくなり、DVDで時代劇を見る生活になった。認知症にはならなかったが、身体が衰え、介護が必要になり、施設に入って亡くなった。

片方は、気力の老化→身体の老化、片方は身体の老化→気力の老化から死を迎えたと僕は見ている。この二人の祖父の最期から、人間は気力と身体の相互が関連し合って、生を維持しているのだと、強く思った。

癌と認知症について、それぞれ人間に備わった「自己破壊システム」ではないかと思っている。癌は身体を免疫が破壊し、認知症は脳が身体を破壊しようとする。(真冬に徘徊して凍死するとか、車道に出て轢かれるとか、用水路に落ちるとか)

今のところ、医療の発達でいろいろな病気が治るようになっているが、癌と認知症はなかなか難しいようだ。菌やウイルスが起こす病気と違って、自分を破壊しようとしているのは自分自身だからだ。ある程度まで生きると、もしくは、環境のバランスが崩れると、自己を破壊するシステムが作動するようになっている。本当に人体というのはよくできているものだと感心してしまう。

気力と体力を適切に保ち、健全な形(惨めなものではない)で最期を迎えるにはどうしたらよいか。その最期まで、よりよく生きるかたちとはどういうことか。私は祖父の最期を目の当たりにした中学生にして、人生の究極の問いにぶち当たってしまった。

ところが、この問いは答えが出ないものなので、とても辛かったし、若い子が抱えるには重荷過ぎるものだった。同世代の子達は、そんな最期のことなど考えず、恋愛、就職、受験など目の前のことだけを考えているように見えた。そんな状況でとても私は孤独だった。また、もっと辛かったのは、たとえ身近な大人に相談したとしても、それが老後の不安→老後のための豊かな年金医療資産→サラリーマンとして就職→大学→勉強となることだった。そういうことではない、と言っても、その回路になっている人に、金銭的な話ではないことが伝わらないもどかしさだった。それはもちろん、金銭も大事なことなんだけれど、言いたいのは、、と言っても言葉は出てこなかった。言葉は自分の中で考えがまとまらないと出てはこない。考えはまだまとまっていなかった。まとまる気配は無いし、分からない人にはとことん伝わらない。

ただ、それからこれまで右往左往したおかげでなんとなくぼんやり見えてきたのは、今こうして家を作り、庭を作っている瞬間は、自分なりの「よりよい生」ができていると感じられるということだ。最期までなにかしらを作って食べて生きて、それができなくなれば、次の世代へ資源を譲って死んでいくこと。それは人類の歴史上当たり前のことを再認識することだった。何かしらを身体を使って、作って生きていくということをやめれば、物理的に飢えて死んだり、もしくは気力体力のバランスが崩れ、自己破壊システムが作動して強制終了。今はそれが「人間の真理」なのかなと思っている。真理に反するといろんな歪みやストレスがかかり、結局は形を変えて異常がでてくる。今の世の中の問題もつまるところ、そこにあるような気がしてならない。その問題へのアプローチは、一人一人が、死と生を、どう真剣に向き合うかということにかかっている。ただ、その向き合った結果が、FX投資や仮想通貨や、FIREというのも残念に思う。同じくらいの世代でこの問題意識を共有できる人と多く知り合いたい。