自分のやりたいことを言語化するということ

ブログのタイトルに迷いがある。

 

僕はなにをやりたいのか、ということを他者にうまく伝えられないのは、その理由の一つとして、ぴたっと一語で当てはまるような言葉で表現できていないせいかもしれない。

 

将来の夢は?と子供に聞けば、子供は警察官、消防士、ケーキ屋さん、お花屋さんになりたい、というような答えをすると思う。聞いた人は、それを聞いて理解することで、会話が成り立つ。聞いた人が親なら、警察官なら、高校や大学を出て、試験や面接を経て合格して警察官になれるし、ケーキ屋さんなら製菓の専門学校を出たり、お店に就職し、技術を身に着けて独立開業をするというルートがあることに安心をするだろう。

 

ルートがある将来の夢というのは、競争はあるけれども、他者に自分が何者なのかを手っ取り早くわかってもらえるし、そのためになにをすればいいか、という「努力」のやりかたもおおかた知ることができるという多くのメリットがある。

 

自分がやりたいことが言語化できないというのは、ルートも努力の方向性も、ひとりで手探りでやるしかないということだ。

 

言語化できないから、他者と概念を共有することが難しいので、サポートも得づらいし、理解してもらうのには時間も労力も必要だ。他者と「やりたいこと」の概念を共有するためには、「言語化」をするか、「やって見せる」ことしかないのではないか。ところが、「やって見せる」ときに他者が絡むと、「もっとうまくならないと見せられない」とか、「自分はまだまだだめだから、、」となってしまう。

 

坂口恭平さんが言っているのは、そこはひとまず置いておいて、「自分が楽しみながら、続けてやっていくことそのものが重要だ」というニュアンスのことだと思う。僕のやりたいことは、まだうまく言語化できてもいないし、「やって見せる」のもまだ途上だ。こうやってあがいている様子を見せることで、自分のためにもなるのかもしれない。

 

自分が藪を拓くつもりでやっていく。お金をできるだけかけず、知識と経験で健康を保ち、楽しく美味しく、快適にくらす。食と農の図書館、薬用食用植物園、暮らしの知恵。

 

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅 「故郷」)

 

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