これまでのこと~直線と円環~

僕は学年が上がるにつれて、だんだんと算数が嫌いになった。理科は好きだったのに、化学になると嫌いになったし、数学になるともっと嫌いになった。「触れられるもの」「(今の自分にわかる形で)この世に存在するもの」じゃないとうまく理解できない性質だ。物理の運動とエネルギーで、「空気の摩擦はゼロとする」というような、優等生ならちゃんとスルーできてしまうようなことに、いちいち「地球上の話じゃないなら、宇宙か、でもまったくの宇宙空間ならボールが坂道を転がるなんてことはないし、どこかの惑星なら、それなりの重力が働いていてかつ気体がまったく存在しない星ってどこよ」とかいう突っ込みを頭から排除できなかった。そういう素朴な突っ込みを教室で先生にぶつけたとして、もらえるものは周囲の嘲笑と先生の面倒くさそうな表情だけだというのはわかりきっていたので、つまらないなとただ思っていた。物理に限らず、抽象概念を、身近なものに例えたりして説明してもらえれば理解できたのだろうけど、それをうまく説明することができる先生はほとんどいなかったし、そもそもそこまでする「必要性」をよくわかっている人はいなかったように思える。「教える」というのは本来であればそこまで含まれていると思うんだけれど。

 

最近なにかで読んだ、「直線的」な価値観と、「円環的」な価依観の対立とパランスについて考えることがあった。直線的な価値観とは、上昇、改善などを積み上げることで右肩上がりになっていく直線を描いていくことが素晴らしいという価値観。円環的な価値観は、同じサイクルを繰り返していくことに価値を見いだす感覚のこと。

 

直線と円環というのは小さい頃から自分を引き裂いてきた価値観だった。僕は小学生くらいいから植物、とくに花が咲くまで時間がかかる蘭を育てていた。蘭のカタログには、色とりどりの写真やアルファベットの品種名に加えて、「BS」「NBS」「2BS」という文字ことに値段も書かれている。「BS」は今年にはもう花が咲く大きさの株、「NBS」は翌年には咲くだろうという大きさ、「2BS」は2年後くらいには咲くだろうという大きさ、ということ。

 

多くの蘭は基本的に春から芽を株元から出し、夏から秋にかけて成熟し、冬の休眠期を経て春に花を咲かせるという性質を持っている。1年に1世代ずつ、より充実させた自分の分身を作っていくイメージだ。 蘭は生長が遅く、増えるスピードも遅いので、値段が結構高いということで、子供だった僕は「BS」に手が出せず、よくて「NBS」、もっぱら「2BS」を主に買っていた。キレイな写真の載ったカタログを見て、今まで知らなかった花に出会う楽しみ、ほしいと思ってどれを買おうかと選び悩む楽しみ、 金額を計算してからの絶望、えいやっといろいろな煩悩を断ちきって思い切って注文してから届くまでのわくわく、届いて梱包を開ける時の不安と高まる期待、そして花が咲く何年後が楽しみだなと思いながら指折りして日々育てていた。 そういう類いの 「愉悦」 に早くから触れてしまったせいか、スポーツで勝つとか、よい成績とか 「学校」や「受験」が絡むようなこどものころに「人間の世が与えてくれる楽しみ」にあまり満足できなくなってしまった。 花が咲くまで少なくとも2年かかる、あるいはもっとかかるかもしれないし、 ずっと咲かないかもしれないものを日々世話すること、に楽しみを見いだしてしまった子ども。 我ながら恐ろしいと思う。「それをやることでなんの得があるのか」というよくある問いには「得がないとやる意味がない」そして、「立身出世で富裕の道こそが最良」という直線的なイデオロギーが隠れている。 食えない花を育てることになんの意味があるのか。 問いを立てる人もいるだろう。もし、「直線的に」説明しようとすれば、「花を見ると癒やされる」とかそれによって「ストレス低減効果」や「○○大学の研究チームによると、 ストレス値が下がることによって被験者の血圧低減効果が」などなど、僕からみるとぞっとするような説明をすることができる。違う。そん

 

なんじゃない。損か得かの勝ち負けの土台に乗ってしまうと、もう直線 VS 円環の戦いなら、円環は直線に負けてしまう。

 

環境保護VS経済開発みたいな図式はほんとによくある。貴重な動植物を守ろうとするけれども、開発の結果入ってくるお金が大切だということで、結局開発賛成派に負けてしまう。環境保護は儲からないし、食えないからと。双方話し合うといっても、何を話し合うのか。信仰の違いを押し付けあうだけになってしまう。今はあまりに直線の世界が強すぎる。国という親方が直線をゴリゴリ押している。それを国民も支持している。僕は国民じゃないのかもしれない。だから自宅の敷地だけは日本から独立して自分なりの直線と円環の世界を作る。

 

円環は、損か得かよりも、冬に枯れてもまた春に出てくると思える安心感を大切にしたいし、命をつないでいくことそのものに意味を見いだす。加齢による劣化はあらがいようがない、一息の後いのちを失ってしまうかもしれない, でももしかしたら運良くいのちがまだ続いていて、キレイな花が見れられるかもしれない。それをわかちあう人も、たまたまいのちをそのときまで水らえることができたから、わかちあうことができる。作物が実ることも不思議でしょうがない。生理的な仕組みは科学で解明されて説明されているけれど、それがうまくまわっていくことは奇跡的だといつも思ってしまう。

 

直線の世界では、ただ息をして生きることは意味が無いとされてしまう。なにか「意味」(=付加価値)付けをしないと生きてはいけないということになる。その意味つけというのはなぜか多くの人にとって労働(しかもなぜか被雇用という形能)といろ音味付けがされている。人が生きる意味付けというのはそれぞれの人が自分なりにできればそれでいいと思うのたけれど、小さい頃からの刷り込みで、「働かざる者食うべからず」なっている。(この言来たって、形は問わずに「なんらかの労働への参加」を呼びかけるもののはずなのに、今では被雇用賃金労働をしろ、という意味になっている)

 

直線的価値観を内面化しすぎたせいで、生きるのが苦しいひとは、円環的価値観でバランスをとらなければいけない。初詣はとても円環的だと思う。日本での初語のお祈りのテンプレは「今年も無事で過ごせますように」とか、「一年間、家族が平和で過ごせますように」だからだ。初詣以外にも、神社仏閣への「おまいり」とはそんなものかもしれない。宗教がこれまで、直線に疲れたり挫折した人たちのための働きをしていたから、もっと宗教のいろんな要素を知ることで、あちこちからぶつけられる直線的価値観から身を守る盾になるかもしれない。

 

f:id:ogorimatuzaki:20220326161957j:plain