「教養・人文知」と「私」と「社会」との折り合いについて

今のところ、折り合いはまだつけられていない。

どうしても三者の折り合いはつかず、僕にとっても大変な悩みだ。ただ、すこし光明が見えてきたような気もしている。

 

僕は「教養」が「大好き」なのかどうかわからないが、なぜか勝手に引き寄せられていってしまう。常に興味関心が向かって行ってしまうのだ。

研究者としての在り方としてはとても向いていると、いろんな人から言われた。ただ、生来の飽きっぽさに加え、論文形式の文章を書くのが好きでないのと、ちょうど大学生のころに盛んに「院卒・博士に就職がない問題」が言われていたので、最初からあまりそっちの道に進もうとは思わなかった。

とりあえず「社会」のなかでは比較的マシそうなところに就職したものの、そこはやはり「社会」の論理が支配する世界だった。教養・人文知がもはや「邪魔者」でしかなくなってしまった。自分が(楽しく)身に着けてきたものは一体何だったんだろう・・。一方で「社会の論理」は非常に浅く、つまらなく感じた。日々接する「社会」がつらいものになり、「私」は「教養」の世界に逃げた。「社会」と「私」の溝は深まっていった。自宅の本はどんどん増えていった。知識教養は増えていった。本の量に比例して溝は深くなっていく。「私」の苦しみは、「教養」に接する瞬間だけ緩和され、「社会」と接するたび再確認されていた。

 

「脳みそから、身体的なものへ」、がキーワードかなとふと思った。

脳みそが作るもの(ことば、抽象概念)では、人と人とを結びつけられる力と同じくらい、溝を深める力も働いてしまっている。脳みその作り(端的に言ってしまうと、頭のいい悪い)も人によって違ってしまうし、過去の知識の蓄積、情報のソース源が、人によって大きく違っていることで、脳内の情報処理で導かれる結果が大きく違ってきてしまう。そのせいで断絶も生じやすい。

だとしたら、脳みそ経由の情報に頼らない、身体の感覚で人とつながれないか。

もちろん、医学的に言えば、身体の情報も脳を経由しているんだけど、ここで伝えたいのは、もっと皮膚感覚とか、内臓で感じるような「快・不快」を感じるシグナルのことです。シンプルな「快・不快」を共有できる相手とつながる。

複雑な政治経済の信条よりも、まずは身体的な快・不快を共有できるかどうか。「教養」で人とつながれなくなってしまった「呪い」をどうやって「祝福」へと昇華させていくか。

 

そこで、「食」と「住」をこれからもっと進めていきたいと思っている。

「これおいしいね」「どうやって作るの」

「ここちよい空間とは」「自然、環境」

教養知識と身体の快・不快を統合させて、人とつながることで、「私」と「社会」の統合を果たす。

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